アンチが粘着や誹謗中傷を繰り返す目的は承認欲求を満たすためである【とにかく相手にしないこと】

かたぴ

みなさんこんにちは。かたぴ(@katapi1103)です。

「アンチに粘着されて困っている」
「見知らぬ人なのになぜ誹謗中傷をしてくるの?」

この記事ではこのような疑問にお答えします。

結論から言うと、承認欲求を満たすためにアンチは誹謗中傷(攻撃的な発言)を繰り返していると考えましょう。

「承認欲求?なんでそんなことを言い出すんだ?」
もしかしたらそう思う人がいるかも知れません。

少し自分の話をすると、自分もアンチに粘着された経験があります。
炎上するようなことをやったわけでもないし、特定の誰かに噛み付くようなことをしたわけではないのですが、なんか気に食わなかったのでしょう。

妬みだけでも生まれてしまうのがアンチというものです。
ネット世界で発信力や知名度が付いてくるとこればかりは避けられませんね。

では、そんなアンチに対して自分はどうしたのか?
やったことはアンチを徹底的にスルーして承認欲求を満たさないようにした、それだけです。

そこでこの記事では、自分自身の実体験を元に、なぜアンチの承認欲求を満たさないようにすることが大事なのかについて解説していきたいと思います。

なお、これから紹介する考え方は、下記の嫌われる勇気幸せになる勇気という本(いわゆるアドラー心理学)がベースとなっています。

自分はアンチが出てくる数年前からたまたまこの本を読んでいただけでなく、愛読書として今でも年に数回読み直していることもあり、アンチが湧いてくる度に「ま〜たかわいそうな人が出てきたか(´・ω・`)」と思っています。

かたぴ

アンチが湧くのは避けられませんが、アンチの攻撃的な発言の背景心理が分かってればどうということはないのです。アンチに困っている人はこれらの本をぜひ読んでみてくださいね〜!

嫌いだから誹謗中傷するとは限らない

アンチの承認欲求を考えるにあたって、まずは嫌いな人のことを一度考えてみましょう。

早速ですが、今この場でみなさんが嫌いな人を思い浮かべてください。
自分の知り合いでもいいですし、過去に街で遭遇した人でもいいです。

浮かびましたか?
その人のことが嫌いな理由は色々あると思いますが、ここではその理由は問いません。

仮にその嫌いな人がネット上で何か情報発信していたとします。
TwitterでもInstagramでもYouTubeでも。

では改めて問いますが、あなたはその嫌いな人の一字一句に直接ネット上で噛み付きますか?
誹謗中傷のような攻撃的な発言をぶつけますか?

もちろん噛み付く人もいるとは思いますが、しない人もいるはずです。

むしろ興味関心がないという人が大半ではないでしょうか?
そんな嫌いな人に自分の時間を割くなんてアホらしい、のような。

つまり、嫌いだからといって誹謗中傷するとは限らないのです。

アンチは暴力を手段に承認欲求を満たそうとする

嫌いだからといって誹謗中傷するとは限らないのであれば、何か別の心理が働いていると考えるのが自然ではないでしょうか?

そこで出てくるのが以下のような承認欲求です。
マズローの欲求5段階説にも出てくる欲求ですね。

  • 自分を尊敬して欲しい
  • 自分という存在を認めて欲しい
  • 自分には価値がある人間なのだと思いたい

アンチはこういった承認欲求を満たすための手段として、『相手に嫌がらせをして反応を楽しみたい』とか『正義感によって自分の言うことを聞かせてやりたい』という思考に陥っている、というのが自分の主張したいことです。

要するにアンチは暴力に頼っているということです。
暴力と言っても殴る蹴るといった物理的な行動ではなく、ネット上の誹謗中傷ですから『言葉の暴力』のほうですね。

より広い意味で言うと、アンチはこういった暴力に頼ることで誰かに影響を与えたいと思っています。
そのための手段として執拗に粘着したり、誹謗中傷したりしているのです。

ところで、言うまでもないですが、承認欲求を満たすための手段は何も暴力だけではありません。
現実には暴力に頼らずとも、自分を認めて、他者貢献を通じて、精神的に満たされている人がたくさんいるのです。

かたぴ

そもそも、冒頭で紹介した書籍に登場するアドラー心理学では他者から承認を求めること自体を否定していますが、長くなるのでここでは割愛します。

健全な努力を通じて他者貢献できるようになるかが鍵

承認欲求を得るために暴力に頼る人と暴力に頼らない人。
この人たちの違いは何なのでしょうか?

一言で言えば、健全な努力を通じて他者貢献できるようになるかどうか?にかかっていると考えます。

今より前に進むために努力をする

人間は誰しも非力な状態で生まれますよね。

一人では何もできなかった自分から、少しずつ、何かができる自分になっていく。
無力な自分を脱したいという根源的な欲求があります(アドラー心理学ではこれを優越性の追求と呼びます)

そこで人間は努力を通じて少しずつ無力な自分を脱していきます。

具体的には勉強や仕事を頑張るとか、トレーニングに打ち込むとかですね。
新しい環境に飛び込んだり、新しいことを始めてみたりといったことも当てはまります。

要するに、今の状態から更に前へ進もうとするような、そういった健全な努力や行動を指します。

努力し続けるのは簡単なことじゃない

ただ、現実というものは以下のように厳しいものです。

  • 努力したとしても報われるとは限らない
  • 一定の成果を出すためには膨大な時間やコストがかかる
  • 今の快適な環境を捨て去らねば達成は難しい
  • 不安定で未知の世界に飛び込まないといけない
  • 価値観の違う人間が出てくる

それでも自己を高めたり他者貢献したりするために、逆境に歯を食いしばってでも前へ進み続けられるかどうか。
他人と比較することなく今のありのままの自分を認めてあげられるかどうか。

まぁ考えるまでもないことですが、簡単じゃないですよね。
じゃなかったら生き方に迷う人や自己啓発本が世にあふれるなんてこともないでしょう。

暴力は対人関係における安直なコミュニケーション手段

大前提として、他人を変えることはできません。

しかし暴力に頼れば、他人を簡単に変えてしまうことができます。
もう少し広い意味で言うと、暴力によって他人に影響を簡単に与えられるようになります。

承認欲求を満たすために暴力に手を染めてしまう人たち

なかなか自分を認めてくれない社会、世の中。
年下でも自分より成功を収める人が出てくる。
あの人は自分よりもチヤホヤされている。
自分はこの歳になるまで何をして生きてきたんだろう?

情報化社会により、いわゆるすごい人たちがいくらでも見えるようになってしまいました。
これはネットが発達したことによる弊害とも言えますね。

すごい人たちを見ているときっとこんな人が出てくるでしょう。

あいつがむかつく。気に食わない。マジで何様?
かといって自分は努力する気もリスクを取る気も起きない。
でも今のままでは承認欲求が満たされない。

こういった板挟みなってしまった人たちがじゃあどうするか?
そこで出てくるのが暴力です。

暴力に訴えれば、いとも簡単にすごい人たちに何らかの影響を与えることできる(かもしれない)からです。

言刃(ことば)という暴力

現実世界で暴力を振るったらすぐに警察に捕まりますから、顔も見えない匿名のネット世界で暴力を振るい続けることになります。

まさに言葉ならぬ言刃(ことば)という暴力です。

  • 成功しているあいつの足を引っ張ってやりたい
  • 価値観や考え方の違う人を「自分が間違っていた」と認めさせたい
  • ブロックされても構わないから自分の存在を認知されたい
  • 気に食わないからマウントを取って相手の上に立ちたい
  • 相手を罵倒することでストレス発散したい

いや〜言刃の暴力の例を書いていて自分が嫌な気持ちになりましたね笑

なんというか、しょーもないですよほんと。
こんなことしたって一時的な快楽にしかならないですし、現実は何も変わりません。

繰り返しになりますが、暴力はあくまでも承認欲求を満たすための手段でしかありません。
承認欲求を満たすためであれば暴力に頼らなくても満たすことはできるんです。

ここで、冒頭で紹介した自分の愛読書である幸せになる勇気の一文を紹介しましょう。

暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるを得ません。

引用:岸見一郎・古賀史健(2016) 幸せになる勇気 ダイヤモンド社

かたぴ

要するに何が言いたいのかというと、自分を高めるための努力もしようとせず暴力という安直なコミュニケーションにすぐ頼って人と繋がろうとするアンチは何歳だろうが未熟だよってことです。

承認欲求を満たさないためにアンチは相手にしないこと

ここまで、アンチは承認欲求を満たすために、誰かに粘着して誹謗中傷を繰り返すという話をしてきました。

じゃあ承認欲求が満たせないようにするにはどうしたら良いのでしょうか?
一言で言えば、とにかく相手にしないということ、これに尽きます。

嫌われてでも目立ちたいアンチ

「誹謗中傷なんてしたら相手に嫌われるだけで、尊敬されることなんて無いのでは?そんなことして承認欲求なんか満たせるの?」
と思う方も多いと思います。

確かにそうなのですが、アンチにとって誹謗中傷して相手に嫌われたとしても構わないのです。

彼らの目的は、嫌われたとしても、目立つようなことをして自分の存在が認知されたいとか、自分の行動によって誰かに影響を与えたと感じたいからです(これはアドラー心理学でいう『人間の問題行動の5段階』の第2段階目に当たります)

アンチの言葉に直接反応してはいけない

メンタルが弱い人からすると、アンチが現れたら病んでしまう人も多いと思います。

一方で強気な人からしたら、アンチに対して売り言葉に買い言葉な反応をしてしまう人もいます。
アンチの発言を取り上げて晒し上げにしたり、小馬鹿にしたり、汚い言葉で罵り合ったり。

いずれにせよ、良くない反応です。
言葉は厳しいでしょうが、それではアンチの思うつぼだと自分は思いますね。

アンチの承認欲求を満たさないようにするという点において言えば、アンチの言葉に直接反応してはいけません。
やるべきは徹底的にスルーです。

例えばTwitterなら、アンチからのDMやコメントに返信したり、ブロックしたりするのは良くないです。
アンチからすれば自分の言葉によって相手に影響を与えた感が実感できてしまうので。

犯罪的行為まで見過ごせと言っているのではない

「スルーしろってことはアンチの犯罪的行為までも野放しにしろってこと!?」
という声がありそうですが、犯罪的行為は野放しにする必要はありません。

表現の自由とは言っても限度はありますからね。
恐喝や犯罪予告など、アンチが法に反するようなことをしてきたら法に基づいて対処しましょう。

そうそう、アンチが法に反するような発言をしていたらスクリーンショットを撮っておくことをオススメします。
アンチがアカウントを消して逃亡したとしても証拠になりますし、いざというときの武器になりますから(実は自分も何枚か抑えています)

最後に、今回のテーマに関連して『コードギアス 反逆のルルーシュ』という昔のアニメから好きなシーンをひとつ。

「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだと」
これは名言ですよね。

かたぴ

アンチのみなさん、ネット上での自分の発言には責任を持ちましょう。批判はいくらしてくれても構いませんが、誹謗中傷はまったくの別物です。一度刻んだデジタルタトゥーは簡単には消せませんよ?

まとめ

アンチが粘着や誹謗中傷を繰り返す目的は承認欲求を満たすため
  • 嫌いだから誹謗中傷するとは限らない
  • アンチは暴力を手段に承認欲求を満たそうとする
  • 健全な努力を通じて他者貢献できるようになるかが鍵
  • 暴力は対人関係における安直なコミュニケーション手段
  • 承認欲求を満たさないためにアンチは相手にしないこと

以上、アンチの誹謗中傷を承認欲求という切り口から語ってみました。

アンチに対する自分の脳内をそのまま書き出したのがこの記事です。
この記事で紹介したような考え方を持っているので、アンチが湧いたところでどうということはありません。

記事の冒頭でも触れましたが、アンチに対する自分の考え方は、下記の嫌われる勇気幸せになる勇気という本(アドラー心理学)がベースとなっています。

まぁこういった記事を書いたことで、直接的ではないにせよ、間接的にアンチを相手にしてしまったかもしれないというのはありますけどね。

でもいいんです。

この記事がきっかけで一人でも多くの人が救われたら自分は嬉しいので。
それこそ情報発信者としての生きがいですから。

むしろ自分は、逆にアンチを利用してやろうという気持ちですらいますよ。
記事のネタ提供ありがとう!って感じです。

かたぴ

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